建築の復元

市谷工場の象徴、時計台

大日本印刷の前身の一社である秀英舎が市谷加賀町に工場を設けたのは、創業から10年後の1886(明治19)年のことでした。当初は工場建物の大半が木造でしたが、次第に老朽化が進み、また、拡大する印刷需要に応えるため生産設備の拡充も必要になりました。1919(大正8)年に工場建物の耐震・耐火基準が法律で定められたこともあり、翌1920年、鉄筋コンクリート造りの工場への増改築工事に着手しました。
活版印刷工場、平版工場、活字鋳造工場と、続々と新棟が完成するなか、1923年9月1日に関東大震災が発生。秀英舎も銀座の本店が全焼し、大きな損失を被りました。しかし、市谷工場界隈まで火の手は及ばず、市谷工場はごく一部が倒壊した程度で、生産能力に大きな影響はありませんでした。
震災の影響で市谷工場の増改築は一時中断したものの、1926年にすべてが完了。6年をかけて工場棟8棟と、時計台である営業所棟が作られました。
時計台は当初2階建てで、役員室などの本社機能と、営業部門が置かれていました。1952(昭和27)年には3階が増築され、2016(平成28)年までオフィスとして利用されました。
2010年からの市谷工場整備計画の一環として、この建物を1926年の建築当初の姿に戻して活用することが決まり、修復・復元プロジェクトがスタートしました。

市谷工場の正門と時計台/1940(昭和15年)年
再開発工事直前の時計台。3階部分が増築されていることがよくわかる/2015(平成27)年

建築物としての評価

復元に先立って、株式会社久米設計および居住技術研究所による建物調査を行ったところ、次のような史的価値が評価されました。

  • 印刷業の発展を示す産業施設である
  • 分離派(セセッション)の作風がよく表れており、当時の建築意匠の特徴を有する
  • 重要文化財三河島汚水処分場喞筒場を生み出した土居松市と宮内初太郎の作品である
  • 鉄筋コンクリート研究第一人者による構造設計である

時計台は竣工以来、90年以上にわたりオフィスとして使われていたために、さまざまな改装が施されていました。しかし、工事前に内部を調査したところ、竣工当時のものと思われる壁や建具、タイルなどが少しずつですが発見されました。これらは復元にあたり資料として活用されました。

グリーンのペンキが塗られているが、竣工当時のドアや腰壁が見つかった
1階床のタイル。復元では床のタイル模様を再現し、一部に竣工当時のタイル実物を活用している
天井を取り去ると、レリーフが刻まれていた

曳家工事

時計台の復元工事に際しては多くの課題を解決する必要がありました。特に外壁色の選定には多くの時間と労力がかけられました。
もっとも大がかりだったのは、工事に「曳家」の工法を用いた点でした。曳家は貴重な建物を保存するため、解体せずに移動させる工法です。時計台は2,500トンもある鉄筋コンクリートの建物ですが、その建物全体を一旦持ち上げて約1週間かけて水平に40m動かし、地盤のカサ上げ・拡張と、免震基礎設置を施したうえで、建物をその上に戻しました。最終的には当初位置から北西へ約10m、高さ約3.2mの移動となりました。

曳家作業の様子。建物をジャッキアップし、ゆっくりとコロで転がして移動させる

時計・社名看板・社章の復元

建物の象徴である時計の文字盤や、正面玄関上に掲げた「大日本印刷株式会社」の社名看板と社章は、当時の写真などから、書体デザイナーの手で慎重に復元しました。

時計盤

時計台のシンボルである時計に関しては残っている資料がなく、戦前に撮影したモノクロ写真よりスケッチを起こして0〜9の数字をフォント化。写真自体がクリアではないため、細部が判然としない数字もあり、既存のフォントの傾向や写真から感じ取れる全体の雰囲気等を吟味しながら理想の形に近づけていきました。
デザイン:おりぜ 岡野邦彦

不鮮明なスナップ写真から、時計盤の書体デザインを検討したスケッチ
塔屋の時計盤の書体も、竣工当時の姿に復元した

看板と社章

建物正面玄関の上に掲げられた、右から左に書かれた楷書の「大日本印刷株式会社」の銘板については、誰によって揮毫されたのかはわかっていませんが、ほぼ正面から撮影した鮮明な写真が見つかり、そこから文字を起こし、細部を調整していきました。
社章は、1935(昭和10)年の大日本印刷発足時から1950年代まで使われていましたが、どのような経緯でデザインされたのかはよくわかっていません。社章はモノクロ写真資料のほかに画像データが存在したため、建物に取り付けるサイズでの使用に耐えうるように、画像をもとにアウトラインデータの制作を行いました。
デザイン:おりぜ 岡澤慶秀

正面玄関上部の看板と社章
看板の文字のアウトライン

印刷機の解体・修理・復元

館内で“動く印刷機”を展示することが決定し、昭和初期に使われていた活版印刷機を復元するためのプロジェクトが始動しました。日頃、印刷機の設計・開発を担当している大日本印刷の生産総合研究所と機械メンテナンスの専門集団DNPエンジニアリングによって、平台活版印刷機の解体・修理・復元が行われました。
そのほかの機械についても、動態展示に向けて修理を行いました。稼働しなくなってから20年近く経過している機械もあり、実際に動くようになるのか、手探りの状態での整備でした。

平台印刷機

当館のシンボル機で、活版印刷用の印刷機です。機械上に平らに版を組み付ける方式の印刷機です。丸い圧胴についた爪が紙をくわえると、圧胴の下を通る組版に接して印刷されます。
機械の製造元や作られた時期は定かではありませんが、解体した際に胴貼りとして巻かれていた新聞紙の日付が1941(昭和16)年だったことから、昭和初期には稼働していたと推測されます。
古いパーツはきれいに磨きましたが、機械の持つ歴史も感じていただけるように、あえて傷などはそのままに、塗装は行いませんでした。また、当時はなかったモーターを新たに取り付けるなど、実際に稼働する印刷機としての整備を行いました。

修理前の平台印刷機。全体が錆に覆われ、汚れもひどい状態だった
機械は一度すべて解体し、磨き、不足している部品は設計した
整備された印刷機

活字パントグラフ(母型彫刻機)

活字を鋳造するための文字の型である「母型」を彫刻する道具です。
三省堂が戦前から導入していた米アメリカン・タイプ・ファウンダース社のベントン母型彫刻機を、大日本印刷の技術者が研究し、津上製作所(現在のツガミ)が開発した国産機です。1948(昭和23)年の完成以降、大手印刷会社や新聞社が相次いでこれを導入し、活字の品質は大きく向上しました。戦後、急速に拡大する出版需要を支えた、影の立役者と言えます。

万年自動活字鋳造機(活字鋳造機)

活字を1本ずつ鋳造する機械です。機械背面にある釜で鉛合金を溶かし、本体にセットした母型と鋳型に充填、即座に水で冷やして活字が作られます。
展示している鋳造機は林栄社の機械です。2003(平成15)年に大日本印刷市谷工場での活版印刷が終了するまで現役で使われていました。しかし、長年倉庫で保管されていたため、稼働するかどうかわからない状態でした。そこで、現在でも新宿区榎町で活字鋳造を行っている佐々木活字店の協力を得て、機械の修復が実現しました。
協力:佐々木活字店

糸かがり機

糸かがりとは、主にハードカバーの上製本で用いられる製本手法です。印刷した用紙を折ってページ順に並べた「折丁」の背に糸を通し、1冊分の本を縫い合わせる機械です。ページが開きやすく、耐久性のある本ができます。
この石田製作所製の糸かがり機は、2020(令和2)年夏頃まで製本現場で稼働していた機械です。折丁を1折ごと手でかけて、11本の針でかがっていきます。

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アクセス

市谷の杜 本と活字館

Ichigaya Letterpress Factory

162-8001
東京都新宿区市谷加賀町1-1-1
電話:03-6386-0555
開館時間:10:00~18:00
休館:月曜・火曜(祝日の場合は開館)、年末年始
入場無料
※平日:予約制、土日祝:予約不要

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